| 合氣道談義 〜 時は巡り 立春も過ぎました〜 節分と立春 〜 H18/01 古谷 貞雄 |
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ここに、永田久著「年中行事を科学する」(日本経済新聞社刊)という本があります。
『節分とは季節の分かれ目のことである。季節には春夏秋冬の四季があり、それぞれの季節の分かれ目、すなわち立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。(略)いつの頃からか立春の前日の節分だけが強調されるようになり、その日が一年の境目と考えられるようになった。』 そして、『一年は365.2422日であり、正月は立春から啓蟄(けいちつ=現代暦の3月5日頃)の前日まで。「節」は季節の標準となり、現在の気候から見るとおよそ岩手県の季節と合致するような感覚である。』と著されている。 詳しくは同書をご覧になると、あらためて『中国・周王朝によって華北の気象状況にあわせてつくられた美しい言葉が、2000年も長く現在までも生きているのは素晴らしいことである。』との著者の言葉に同感されることでしょう。 判ろうとするより感じる能力を磨く! 言葉で表わせば「春」。しかし「いつからいつまで」と決められない期間を「肌感触」で季節を感じさせるという先人の智恵に感服する。四季がある日本では、古来より日本人は五感で感じるよりもっと繊細な感覚を持っていた。肌で感じ、雰囲気・気配で察する。悠久の時を過しながら、天地自然の営みに畏敬の念を抱いてきたことから、他から命令や指示をされてから動くのではなく、自ら五氣をもって察知し動く民族であったように思います。 その皮膚感覚を大切にしたことが、目に見えない「氣」の存在を確立させ、自然・宇宙の神秘を具現させ続けてきた源なのではないでしょうか。“氣”は目にも見えないし、耳にも聞こえない、匂いもなければ、食べられもせず。しかし確実に“氣”は存在する。人と接すれば即座に相性が感知できるし、部屋に入ったとたんにその場の雰囲気は察知できる。食あたりしそうな食べ物は、どうもいやな感じがして箸を出す氣になれない。危険な場所はなんとなく分かるし、また動かない氣を誘って動かすことも出来る。 合氣道の稽古も同様の感覚の習得が肝要ではないかと思います。 あらゆる事に共通の「肩の力の抜けた状態」とは、例えば、そよ吹く風が肌にヒンヤリとあたる小春日和の縁側で、ついウトウトとする状態であると思います。周りで少々何が起こっても、身も心もトロケルような何とも言えない心地よさの感触。 更になお「打たれて、持たれて」からではもう遅い、相手が「打とう、持とう」という「氣」になる、さらにはそのようにさせる発氣の瞬間を、あたかも季節を感じるような肌感覚で感じる稽古をすることによって、全てに通じる合氣の道を歩むことになるのではないかと思います。そのことは、どんなに一人だけ張り切っていても周りの人との合氣が無ければ、ことは運ばないということでしょう。 「熱心に繰り返すだけの稽古だけでは真の進歩向上は決して望めない。」(故・山口清吾師範談)「合氣」とは、相手に合わすとか相手を導くとかというものではなく、「卒啄同時(そったくどうじ)」(卵からヒヨコが出ようとした瞬間、親鳥がコツンと殻を突く状態)の氣の触れ合いだと思います。 ただ、最近はいろんな情報が氾濫し過ぎて、感覚が麻痺している人も多い。とことん話さなければ相手の考え方が分からないとか、自分の体にとって害を及ぼすものかどうかを他人に聞かなければ判断できない、など。それは宇宙からの情報のアンテナである背骨がすっきりと通っていないからではないだろうか? 正座し、イメージ瞑想・呼吸法をする大切さを、是非味わって頂きたいものです。 武道は、何時の場合でも最善最高の働きが出来るように、常住坐臥五感を磨く訓練を重ねることだと思います。すべき事を成し遂げた時のように、あとは天命に任せきって清々しく穏やかな雰囲気を身に纏えるような稽古をすることが肝要と思うのですが、如何でしょうか? |